昭和48年05月07日 夜の御理解
夕食の時でしたが、愛子がお茶の先生の所で、聞いて来たと言うて話しておりましたが。庭に虫やら鳥やらが住みつくと言うのは、庭の一つの風物詩であり景観なんです。だから庭にもそういう虫やら鳥やらが、つくようにならなければならないという訳ですけれども。そしたら横から久富先生が、家の庭にはね屋根鶏が、一匹住みついとりますよと言う訳ですよ。はぁそうですか何回か見たち言う訳です。それがあのチャボと言うですかね、あれが広い庭に点々と遊んでいるのは、とても良いですはねやっぱり。
そんな話を聞きながら、今日はお食事をさせて頂いたんですよ。そして今ご祈念が始まったすぐ後に、私ここに座ったんですが、読み続けております、教主様の歌集ですね。開いて読み始めた所がです。今日愛子が話しておった様な事が、ずっと連作で書いてあるんです。だから小鳥が庭に住みつくためには熟し柿ですね。柿を時々置いてやらなければいけない。それに小鳥が集まってくるち言うんですよ。そしたらその事を歌にしておられるのが、連作になって幾つもあるんですよね。
「小鳥どもの、水鉢求め水張りて、妻は庭に置く熟しとともに」
「小鳥ども、来てついばめと、妻が置く、愛宕柿なり、庭の木陰に」
「メジロ来て、熟しついばむ有様を、障子の間より、妻と見ており」
「双眼鏡の、ピント合わせて、美しき、メジロの熟しついばめる見る」
「何気なく、目をやる庭の石の上に、石叩き来て、あたり見回す」
「小雪散りし、わが庭先に、今日もまたメジロきたり、熟しついばむ」
「メジロには、熟しついばむ傍らに、ひよどり現れ、メジロは去りぬ」
「愛宕柿の、くず柿なれど小鳥ども、ある喜びて来てはついばむ」
「わが庭の、南の庭も北庭も、冬の小鳥の来ており今日も」
こんなに沢山の連作を、その熟し柿の事をね、偶然と言えば偶然ですよね。これだけ沢山の歌集の中に、熟し柿を小鳥にやるというとは、ここだけだと思うのですけれども。私は、何時もがね、そういうそしてまたずっと、御祈念中に読み終わったところが、また小鳥の歌でした。そういう普通の人は偶然と言い、私共はそこに何かを感ずる。何かをと言うことは勿論、神様の働きを感ずる。神様の働きを実感するところにです。信心生活があると思うのですよ。
だから幾らおかげを頂いても、参っておっても、先ほど幹三郎がお話をしておりました様にね。信心の修行と言ってませんでしたですね、信心の苦労と言っております。信心の苦労のない人には、そういう勘は鋭くならないです。ただおかげを頂かんならんから、修行しよると言うのは、大した信心修行にはならんと思うです。これだけお恵みの中に、いわば有難い神様のおかげで、お賄いを頂いておる。他の事は出来ないけれども、信心の苦労だけはしたいという意味の事を言っておるようでした。
私は信心の苦労をしておりますとですね。天地自然との密接な係り合いを直にね、これに感じ取る事が出来る。例えば今晩夕食の時に聞いて、熟しをやらないけんげな。私も初めて聞いた話ですその話は。そんな話は。はぁそげなこつばいなと思うて、聞いておりました事がです。ここに教主様の連作に、いわゆる小鳥に熟しを与えると言う事が、十幾つかの歌に現れておる。
そこをまた読んでおる。何か不思議な感がすると言うだけじゃなくて、神様のね本当に間違いのない働きの中に、何時もあるんだなという実感。そういう実感をしながら生活する。それが信心生活だと私は思うのですよ。それにはお互い、信心の苦労をせにゃつまらんです。おかげ頂くために修行すると言う様な事じゃつまらん。信心の苦労をしなければ、天地との密なる繋がりといった様なものをキャッチする心の、いわば上達と言う事は望めません。
どうぞ。